ゆうじん

友人と誘人の違い

友だちの存在は、メンタルヘルスにはとても重要なことだと言えます

友だちとは、互いの心を許し合って、対等に交わっている人、一緒に遊んだり、しゃべったりする親しい人、そう辞書には載っています

その中で、遊んだり、しゃべったりすることよりも、心を許し合い、対等な関係であることが、友だちとしては大事な要件だと思います

人は、相手が心を許していると思えると、自分もその人に心が許せますし、相手が対等な関係で接してくれれば、自分も対等に接することができると思います

そうであるならば、自分が友だちになりたい、そう思う人がいたなら、自分からその人に心を許し、対等な関係を築くことが必要だと思います

心を許し合う、対等な関係である、友だちでいるには、まずは自分から、心を許して、対等な関係でいるようにすることが必要だと思います

 

友だちは、自分が友だちでいたいかどうかを、自分で決めることができます

社会生活の人間関係も、自分で決めることができますが、友だちの方が、決める自由度は大きいと思え、その分、自分で決めることができると思います

社会における人間関係では、自分が苦手な人であっても、自分の社会生活において必要であるならば、人間関係を築く必要があります

しかし、友だちの場合は、その必要がありません

友だちは、自分が心を許し、対等な関係になれる人となるものだからです

それなのに、心を許していない、対等な関係ではない人を、友だちだとしている、そんな状況を見かけることがあります

そこにあるのは、友人ではなく、「ゆうじん」の「ゆう」の字が、友でなく、誘うになっている、誘人になっているときのように思います

 

友だちとは友人のことですが、同じ「ゆう」と読む字であっても、友「とも」と誘う「さそう」では、意味は全く違ってくると思います

「ゆうじん」が友人のときは、お互いが心を許し合い、対等関係を築いているとは思いますが、誘人のときは違うように思います

ただ時間を共有するために誘う間柄は、誘人であって、友人ではないと思います

それなのに、時間を共有するために誘う「誘人」のことを、友人だと思ってしまうと、友だちの定義が変わってくるように思います

友だちの意味の中に、一緒に過ごすことがあるからと言って、一緒に過ごすだけの間柄である「誘人」を、友だちである友人と同じだと思うのは違うと思います

友人関係がうまくいかないことがあるのは、友だちである友人が、時間を共有するために誘う誘人になっているからかもしれません

 

あなたの友人関係は、誘うだけの誘人になっていませんか

友だちの数が多いことを自慢しているときは、友だちである友人が、ただ誘う人である誘人になっているときのように思います

友だちである友人に、数の多さや一緒にいる時間の長さは関係ありません

数が多くても、時間の共有が長くても、心を許し合い、対等な関係がなければ、それは友人ではなく、誘人でしかないように思います

友だちがいないと思うときは、友人ではなく、誘人を見ているときだと思います

友人は自分が作るもので、他の人が作ってくれるものではありません

他の人からきっかけを作ってくれることはあっても、友人になるかどうは自分が決めるので、自分が作ると思わなければ友人はつくれません

誘人ではなく、友人をつくる、そう思えば、誰もが友人は作れると思います