誰もが普通の人

誰かと比べて優劣を見てしまう事はありますか
他の人と比べる事で、自分が優れている、或いは、劣っていると思いますか
確かに、他の人と比べてできるかできないかはあると思いますが、それで自分が優れている、劣っていると思うのはちょっと違うように思います
他の人と比べて優れているだけではその事が優れているとはいえず、ましてや、その事で人としての優劣を決めてしまうのは良くありません
それなのに社会では、物事による優劣でしかない事で、人としての優劣まで決めてしまう事があるように思います
物事にある優劣で人としての優劣を決めてしまうと、何を基準にするかによって、人としての優劣が変わっていくという事になります
物事における優劣は、他の物事に関してはその優劣を適用する事はできません
なので、仮に物事の優劣があったとしても、その優劣によって人としての優劣を表している事はないように思います
なので、物事にある優劣によって人としての優劣が決まる事はないと思います

人としての優劣を付ける事はできないと思います
もちろん、社会で生活していく上では、物事における優劣がつく事がありますが、それが人としての優劣だと思うのは違うと思います
なので、他の人と比べた優劣によって人としての優劣が決まる事もありません
物事を行った結果として優劣がついているだけになります
物事の結果としての優劣は何も問題はないとは思いますが、その優劣が、人としての優劣であるようになっていくのは問題だと思います
そこにある優劣は物事にある条件の中での優劣でしかなく、条件が変われば優劣も変わってしまう事があるからです
それなのに、物事の結果でしかない優劣によって、人としての優劣が決められている事が実際にはあるように思います
物事の結果でしかない優劣が、人としての優劣になってしまうのは問題ですが、だからといって、物事の結果に優劣をつけないようにする事も違うと思います
大事なのは、物事にある優劣と、人としての優劣は同じではないという事です

物事の優劣が人としての優劣になる事はありません
それなのに人は、何か一つの事に優れていれば良いと思ってしまう事があります
その為か、何かと自分の方が優れているアピールをする人が多いように思います
他の人と比べて自分の方が優れていると思える事があると、その事を周りにアピールしていき、自分は優れていると思おうとしていきます
実際には優れていなくても、他の人に評価されれば優れている事になると思って、自分は優れているアピールをするようになっていきます
初めは優れていると思う所をアピールしていたのが、他の人と比べる事で優劣を見ていけばいくほど、優れているように見せるだけのアピールをしていきます
それだけではなく、自分の主観で優劣を見ていくようになると、どんな事であっても、自分が他の人より優れていると思っていくようになります
自分の主観だけで物事を見ているときは、自分の都合の悪い事は見なくなります
そうなってしまうと、周りがどう思うかは関係なく、自分が自分の事を優れていると思えば、人としても優れていると思うようになっていきます

誰もが、人としては優劣のない普通の人だと思います
優劣のない普通とは、物事における優劣をつけないという事ではなく、物事における優劣で人としての優劣は決まらないという事です
優劣がつく事がいけないという事ではなく、いけないのは、物事にある優劣で人としての優劣が決まると思ってしまう事だと思います
結果としての優劣は条件が違えば変わる事もあり、人としての優劣は他の人と比べるのではなく、今の自分と比べて見ていくものだと思います
それは、今の自分より良くなっていこうと思う事が大事で、そう思える人が優れた人であり、皆がそう思えばそこに優劣はなく、誰もが普通の人だといえます
他の人と比べて優れていても、それがこれまでの自分より優れているとは限らず、他の人と比べていては本当に優れた自分にはなっていかないと思います
誰もが、優れている普通の人であると思えれば、自分や他の人をそのまま受け入れる事ができ、お互いが助け合う社会になっていくと思います
誰もが普通の人だと思えれば、他の人と比べて優劣を見る必要がなく、他の人が良いと思うのではなく、自分が良いと思える自分になると思う事ができます