わからない不安
わからないこともある
不安になることはありますか
不安は、不安になることがあるのではなく、自分が不安にしているだけです
何を不安に思うかは、人によって違いがあり、多くの人が不安に思うのは、自分がわかりたいことが、わからないときのように思います
わかりたいけど、誰もそのことをわかることができない、と不安になると思います
わかりたいことがわからないのであれば、わかるようにしていけばいい、そう思うかもしれませんが、わかることができないこともあります
自分のことであれば、自分でわかることはできますが、他のことであれば、自分ではわかることができないこともあると思います
しかし、わかりたいという思いが強ければ強いほど、そのことがわかることができないと、わからないことへの不安は大きくなっていくように思います
人は、自分がわかりたいことが、どうしてもわからないときは、自分で勝手に想像することがあり、そのうちに想像が妄想になっていくことがあります
想像は、自分が思い描いているものなので、わからないことをどんなに想像しても、それは事実とは違うので、想像で不安がなくなることはありません
どうしても、わからない不安をなくしたいときは、想像を妄想にしていき、実際にある事実ではなく、私だけが思う私実で不安をなくそうとしていきます
初めは、そうかもしれないと想像していたことが、きっとそうだと、そうに違いないと妄想して、事実ではなく、私実で不安をなくそうとしていきます
しかし、妄想による私実は事実ではありません
どんなに、自分が事実だと思い込んでも、自分の妄想でわかったとしていることは私実であり、それが事実になることはありません
きっとそうだ、そうに違いないと思う私実が、事実であることはなく、結果的に、事実と同じだったことがあっても、それで私実を事実だと思うのは間違いです
結果が事実と同じであっても、自分の妄想であることは私実でしかなく、事実を私実にしていては、不安な思いがなくなることはありません
わからないことを不安にしないためには、わかりたくてもわからないこともある、そう思って、わからないことをわからないまま受け入れることが必要です
今の時点で、わかることができないことを、わからないとすることが必要です
わからないままだといけない、そう思うのかもしれませんが、わかることができないことを、わからないままにすることはいけないことではありません
わかることができることを、わからないままにするのは良くありませんが、わかることができないことは、わからないとした方が良いこともあります
自分がわかりたいことのすべてが、わかるわけではないと思います
そのことは誰もがわかっているのに、自分が、どうしてもわかりたいことがわかりたいときは、わからないのはいけないと思うのは違うと思います
わかりたくないことは、わかることでもわからないとしていくのに、わかりたいことは、わからないことをわからないとしないのは良くありません
わからないというと、他の人に「わからないの」とマウントを取られる、そう思うのかもしれませんが、マウントを取る人ほど本質はわかっていないものです
わからないことはわからない、そう思うことができれば、そのわからないは、わかることができることか、できないことかがわかってきます
それがわかれば、わかることができるものは、わかるようにする、そうではないことは、わからない、そうすることでき、わからない不安はなくなります