自分の弱さを認める

認められると強くなれる

自分の弱さを認められると、他の人と自分を比べることがなく、他の人よりではなく、今の自分より良い自分になろうとしていきます

しかし、自分の弱さを認めることができないと、他の人と自分を比べててしまい、今の自分ではなく、他の人より良い自分になろうとしていきます

それだと、他の人より良くならなければ、良い自分ではない、そう勘違いしてしまい、自分の弱さを周りに気づかれないように隠そうとしてしまいます

人が、やたらと自慢したり、やればできるような態度をとったり、マウントを取るようなことをしているときは、自分の弱さを隠そうとしているときだと言えます

もし、自分に弱さはない、そう本当に思っている人がいたとしたら、それはただのうぬぼれか、見栄を張っているだけのように思います

何かと他の人と比べているときは、自分の弱さを認めていないときだと言えます

 

どんな人でも弱さはあります

弱さがあるから、強さがあるのであって、強さだけしかない、或いは、良いところしかない、そんな人はいないと思います

それなのに人は、自分の弱さを隠そうとしてしまうことがあります

社会において否応なしに他の人と比べられてしまうことがあるのが、大きな要因だとは思いますが、それでも、自分の弱さを隠そうとするのは良くありません

自分の弱さをあえて見せる必要はないとは思いますが、弱さを他に気づかれないように、何が何でも隠そうとする必要もないと思います

自分に弱さがあるのに、それを隠そうとしてしまうと、自分が自分に嘘をつくことになり、何か不都合なことはすべて他のせいにしてしまうことがあります

自分が自分に嘘をついていくことほど、自分の人生を狂わすことはありません

 

自分の弱さを認めてしまうと、他の人に嫌なことを言われる、そう思うのかもしれませんが、人の弱さに嫌なことを言う人の言葉は、気にする必要はありません

人の弱さに嫌なことを言う人は、自分の弱さを認めていない人だからです

自分の弱さを認めていない人に何を言われても、「そんなのわかっているよ、だから何」と言い返せば、それ以上は何も言ってこなくなります

自分の弱さを認めいない人が、他の人に言えることは、その人にある弱さを指摘することだけで、だからどうしたら良いかを言うことはできません

自分の弱さを自分が認めていれば、自分の弱さを他の人に指摘されても、「そうだよ」と答えることができ、それ以上何か言われることはないと思います

自分の弱さを自分が認めきれていないから、他の人から弱さを指摘されると、あーだこーだ言い訳してしまい、自分からドツボにはまってしまいます

 

自分の弱さを認めることは、自分が認めると思えばできますが、他の人に認められないといけない、そう思ってしまうと、自分で認めることができません

弱さに限らず、自分を認めるのに、他の人が認めるかどうかは関係ありません

そのことは、自分の弱さ以外のことを思い返してみればわかると思います

今の自分が認めていることは、どれも他の人が認めているから認めていることではなく、自分が認めることで認められていることのはずです

それなのに、自分の弱さだけ、他の人に認めてもらえないと、自分が認めることができない、そう思うのは違うように思います

自分の弱さは、自分が認めると思えば、他の人は関係なく認めることができます

自分の弱さを認めることができないのは、自分が認めると思っていないだけ、そのことに気づければ、今日からでも、自分の弱さを認めることができます

相手の立場で考える

自分にも相手にも良いこと

相手のためだと思ってしたことが、そうではなかったことはありますか

相手のためだと思って、何かをしようとすることは良いことだと思いますが、それには、そのことが本当に相手のためになっている必要があります

自分がどんなに相手のためだと思うことであっても、相手にとってはそうでもないことは、相手のためになっていることではないと言えます

それなのに人は、自分が相手のためになると思っているだけで、相手の思いを確認することなく、相手も自分と同じだと思ってしまうことがあります

自分の行動を相手がどう思うかは、自分ではなく相手が決めることです

「ためになっているよね」と聞かれて、「なっていないい」そう答えられる人はあまりいないと思え、それが自分の為だと思っている行動であれば尚更です

「ためなっているよね」そう聞かれて、なってないと言える人は少ないと思います

 

もちろん、相手のためと思っていることが、相手にとって迷惑なことであれば、ためになってない、そう言われることもあるかもしれません

しかし、迷惑なことではないけど、ためになっているかと言えばそうでもないことは、ためになっていないと、相手は言わないように思います

そのことが、自分だけが相手のためだと思っていることを、相手も同じように思っているという勘違いにつながっているように思います

本当に相手のためになっているかどうか、そのことが見えなくなるのは、自分のことではなく、自分のことだけを考えてしまうことがあるからです

人は、自分のことを考えますが、それは、自分のことだけを考えるのとは違います

自分のことを考えるとは、自分のことだけではなく、自分が関わるすべてのことを考えることで、他の人のことは、他の人の立場で考えることです

 

人は、自分の思いが強ければ強いほど、自分のことを考えるのではなく、自分のことだけを考えてしまうことがあるように思います

普段は、自分のことを考えていても、自分がこうしたい、こうなって欲しいという思いが強いときは、自分のことだけを考えてしまうことがあるように思います

しかしそれでは、本当の意味で、相手のことを考えることはできません

どんなに、相手のためだと思っても、自分のことだけを考えてしまうと、自分が考えたい、相手のことを考えてしまうからです

それは、相手のためではなく、自分のためになることでしかないと思います

どんなに相手のことを考えていると思っても、自分が考えたい相手のことは、相手のためではなく、自分ためでしかないと言えるからです

そのことが、本当に相手のためなのか、ただのお節介なのかの違いだと言えます

 

自分が相手のためだと思っていることは、本当に相手のためになっているのか、本当に相手にとって良いことなのか、そのことを考えることが必要です

自分にとって良いことではなく、相手にとって良いことを考えることが必要です

どんなに自分にとって良いことでも、相手にとって良いとは限りません

自分が良いと思うことは、相手もそうに決まっている、そう思うのは間違いです

もちろん、自分が良いと思わないことを、相手いしていくことは良くありませんが、自分が良いと思うだけで、相手にしていくことも良くありません

大事なのは、自分だけではなく、相手にとっても良いことを考えていくことで、自分が良いと思うことを、相手もきっと良いと妄想することでありません

自分だけではなく、相手にとって本当に良いことは何なのか、そのことを考えていければ、自分のことを考えることができ、相手のためになる行動はできます

キュアとケア

心のケアのカウンセリング

キュアは、治療することで、ケアは、注意や配慮、世話をすることを意味します

キュアは、自分ではどうしようもないことがあったときに、ケアは、自分ではどうしようもないことが起こらないようにするときに、必要なものだと言えます

心の問題においても、自分ではどうしようないときは、キュアのカウンセリングが必要ですが、そうではないときは、ケアのカウンセリングが必要になります

それなのに、心におけるカウンセリングにおいては、自分ではどうしようないときに受けるもの、そういうイメージがあるように思います

確かに、自分ではどうしようもない心の問題があるときに、カウンセリングは必要ではありますが、そうではないときにも必要なものになります

誰もが、自分ではどうしようもない問題が心に起こらないようにするために、心のケアをするカウンセリングは必要だと言えます

 

ケアは、自分でする必要があります

キュアは、他の力でしてもらうことが必要ですが、ケアは、他の力を借りながら、自分で行っていく必要があるものになります

どんなに、自分ではケアをしているつもりでも、自分では何もすることがなく、他の力に頼りっぱなしでは、ケアになることはありません

それは、カウンセリングも同じであり、キュアによるカウンセリングと、ケアをするカウンセリングでは、カウンリングそのものが違うと言えます

どんなに、心のケアをしようと思っても、カウンセリングはキュアするものだと思っていては、ケアするカウンセリングになっていきません

カウンセリングは、自分ではどうしようもない心の問題があるときに受けるもの、そのイメージが、そのような誤解を生んでいるように思います

 

心に自分ではどうしようもないことがあるときは、キュアのカウンセリングは必要ですが、それらが起こらないためにはケアのカウンセリングが必要です

自分ではどうしようもない、心の問題が起きていないときに、キュアによるカウンセリングを受けていても、問題を起きなくすることはできません

逆に、自分ではどうしようもない、心の問題が起きていないのに、キュアのカウンセリングを受けてしまうと、別の心の問題が生じてしまうこともあります

他に依存するという心の問題が生じてしまうことがあります

自分ではどうしようもない、心の問題を起こさないようにするために必要なのは、キュアのカウンセリングではなく、ケアのカウンセリングです

自分ではどうしようもない、心の問題が起きないようにできるのは自分だけで、そのために必要なのは、治療ではなく注意や配慮の方だからです

 

心のケアを怠ってしまうと、自分でも気が付かないうちに、自分ではどうしようもない心の問題が起こってしまうことがあります

自分から、心の問題を起こそうとする人はいないとは思いますが、キュアとケアが混同していては、心の問題を自分から起してしまうこともあります

キュアは、自分がどうしようもないことに必要なもので、自分がどうにかできることに必要なのは、キュアではなくケアの方です

心のケアをしているかしていないかで、心の問題の起こり方は変わります

心のケアをしていないと、頼ってはいけないことを頼る依存や、頼った方が良いことを頼らない独りよがりになってしまうことがあります

それでは、自分ではどうしようもない、心の問題が頻繁に起こってしまいます

そうならないためには、心のケアをするカウンセリングが必要だと言えます

自分に時間を使う

何しない時間は最高の贅沢

時間を有効に使っていますか

誰にも平等にあるのが時間だと思います

時間は、どんなにお金や地位があっても、増やすことはできません、例え、他の人に任せることで時間を節約することはできても、増やすことはできません

効率的に行動して、常に何かをしていることが、時間を有効に使っていることになるかとは言えば、そうではないように思います

そもそも、時間を有効に使うとはどういうことなのでしょうか

他の人からどう見えても、自分が有効に使っている、そう思えることが、時間を有効に使っている行動である、そう個人的には思います

何をしているからということではなく、自分にとって必要だと思うことに時間を使っているかどうかが、時間を有効に使っていることだと思います

 

時間を有効に使えているかは、自分に時間を使っているのか、或いは使っていないのか、どちらになっているかで決まるように思います

自分に時間を使っているときは、どんな行動していても、時間を有効に使っていると言えますが、そうではないときは言えないと思います

自分に時間を使うとは、「自分が使う」と決めて使っている時間のことであって、決して、自分のことだけに時間を使うことではないと思います

他のことに時間を使っていても、自分が使うと思って使っている時間であれば、それは、時間を有効に使っていることだと言えると思います

それは、何もしていないということであっても、自分が何もしないと決めているのであれば、時間を有効に使っていることだと言えると思います

何もしないことが、時間の無駄、浪費になるのは、自分で決めていないときです

 

自分が使うと決めることを意識すると、時間を有効に使うことができると思います

自分が時間を使うと決めずに、有効な時間の使い方はわからないように思います

自分が使うと決めることができないと、時間に振り回されてしまい、限りある時間を無駄にしたり、浪費したりして、有効に使うことができないと思います

自分に時間を使うとは、時間をどう使うかを自分で決めていくことで、常に時間を埋めることではなく、他の人に任せて時間を節約することでもないと思います

自分の時間をこのために使う、そう自分が決めて行動していけば、誰もが時間を有効に活用することができるようになると思います

例え、他に時間を使っていることであっても、そのことに時間を使う、そう自分が決めているならば、その時間は有効な時間だと言えます

しかし人は、何に時間を使うかを、自分で決められないことがあるように思います

 

自分の時間を何に使うかを、自分で決められないのは、何もしないでいる時間を、時間の無駄や浪費である、そう思っているからだと思います

何もしない時間を、時間の無駄や浪費にするのか、最高の贅沢なものにするのかは、自分が決めているかどうかで変わってきます

自分が決めていない、何もしない時間は、無駄で浪費だと言えますが、自分で決めている、何もしない時間は最高の贅沢だと言えます

何もしない時間を、無駄や浪費ではなく、贅沢なものにするには、自分から意識的に、何も考えず、ただボーとする時間を持つようにしていきましょう

自分からボーとして、時間を贅沢に使うことで、思考がリセットされていきます

自分がリラックスできる場所で、大きく深呼吸しながら、何も考えずにボーとする贅沢な時間が持てると、時間を有効に使えるようになります

ないと思わない

あるとも思わない

何かがある、そう思うには、あるということの証明が必要だと思います

あることが証明できれば、そのことはあると言えすが、あることが証明できないことは、ないということになるかと言えば、そうではないと思います

科学者の人がある番組で、「科学はあることは証明できるけど、ないことを証明することは難しい」ということを言っていました

あるかどうかを判断するのに、あるという証明が必要だと思いますが、そうであるならば、ないかどうかを判断するのも、ないという証明が必要だと思います

それなのに人は、あるということが証明できないということだけで、そのことをないとしてしまうことがあるように思います

あると証明されて初めて、そのことがあるになるのであれば、ないということが証明されていなければ、そのことをないと言うことできないと思います

 

あるとは言えないだけで、そのことがないとは言うのは違うと思います

それは、物事だけではなく、人の思いもそうだと思います

自分がないからといって、他の人の思いをないとするのは違うと思います

自分が思っていることであれば、あるかないかはわかりますが、他の人のことは、自分ではわかることができないこともあると思います

それなのに人は、他の人の思いを、自分の思いだけで考えてしまい、あるかどうかわからないことを、ないとしてしまうことがあるように思います

あるかどうかわからないことは、あるとは言えませんが、ないとも言えません

自分の思いであれば、自分であるかないかを判断できますが、他の人の思いの場合は、自分では判断することができないこともあります

それなのに人は、自分の思いで、他の人の思いを判断してしまうことがあります

 

人は、ないと思ってしまうと、そのことを修正するのが難しくなるように思います

あると思っていたことを、ないと思い直すことはできても、ないと思っていたことを、あると思い直すことは意外とできないように思います

そこにあるのは、あるということは証明できるけど、ないということは証明することが難しい、という事実があるように思います

あるということは、あると証明できるので、それが証明できないことはないことである、そう思い込んでいるだけに過ぎないように思います

あると言えるのは、あるということが証明されたからで、そうであるならば、ないと言えるのは、ないということが証明されたときだけだと言えます

決して、あると証明されないことが、ないと証明することでなく、あると証明されていないことをないとするのは違うように思います

 

もし、自分があると思えないことがあったときは、そのことをないとするのではなく、あるということが証明されていないだけ、そう思うことが必要です

そう思っていけば、あるかないかがわかっていないことが、あるとわかっとときに、そのことがあるとすぐに認めることができます

しかし、ないと思ってしまうと、そのことがあるということがわかった後でも、ないという思いを変えることができないことがあります

自分がない、そう強く思っていたことであればあるほど、できなくなると思います

対人関係にある多くの問題は、自分があると思えないことを、ないとしてしまい、そのことがあったときに、修正できないことにあるように思います

ないと証明されていないことは、ないと思わない、そう思っていくだけでも、思考を柔軟にすることができ、対人関係は良好になっていくように思います

自分が信じる

信用ではなく信頼する

カウンセリングにおいて重要なのは、信頼関係になります

信頼とは、自分が信じると思って、信じることです

そこに、相手がどう思うかは関係なく、自分が信じると思えば信頼はできます

信頼と同じような意味で、信用がありますが、同じ信じることであっても、信頼と信用とでは、信じるために必要なことが違ってきます

自分が信じると思うことで、信じる信頼とは違い、信用で信じるには、信じるに値するだけの保証が必要になってきます

取引や契約など物事に必要なのは、信じるだけの保証がある信用の方になります

しかし、カウンセリングにおいて必要なのは、信用ではなく、信頼の方になります

それは、カウンセリングを受けることにおいて大事なのが、カウンセラーを信じるための保証よりも、自分が信じると思えるかどうかだからです

 

カウンセリングは、心に病気や悩みがある人だけのものではなく、心の問題がある、すべての人にとって必要なものになります

心の問題がないという人はいないと言え、今より良い自分になる必要があるすべての人に、今より良い自分になる、という心の問題があります

そう言った意味では、自分らしく、なりたい自分になりたい人にあるのも、今より良い自分になる、という心の問題になります

今より良い自分になる、という心の問題は、自分が「なる」と思っていなければなることはなく、誰かにしてもらうことはできません

そこに必要なのは、信用による信じるはなく、信頼による信じるになります

信用は、信じる保証があれば、自分が信じると思わなくても信じられますが、信頼は、保証があっても、自分が信じると思わなければ信じることができません

 

信用と信頼では、信じるということは同じでも、信じる条件は違うのに、信用と信頼を同じ意味で使ってしまうことがあるように思います

信用を信頼の意味で、信頼を信用の意味で使っているときがあるように思います

私のことを信用できないの、そう言っているときは、人に対する信頼と、情報に対する信用が混同しているときのように思えます

人のことは信頼で信じるのは良くても、情報を信頼で信じることは良くありません

例え、どんなに信頼できる人からの情報であっても、情報を信じるには、それを信じるだけの保証のある信用でしか信じることはできません

信頼する人が言っているということは、情報を信用するための保証にはなりません

それは、信頼でしかなく、情報を信頼で信じることほど危険なことはなく、そのことに気づいていない人は、意外と多いように思います

 

人を信頼するのは良いですが、だからと言って、信頼している人にある情報を、その人の信頼だけで信じていくの良くありません

情報を信じられるかどうかは、人の信頼ではなく、情報の信用が必要だからです

仮に、私のことが信じられないのか、そう言いたいのであれば、私のことを信じられるだけの保証をその人が用意する必要があると言えます

人を信用するのと、信頼するのとでは、信じる気持ちがまったく違ってきます

信用で信じようとしていくと、人の上辺に惑わされてしまうこともありますが、信頼で信じようとしていくと、人の本質を見ることができるように思います

自分が他の人のことを信じると思うかどうかで、信頼できるかどうかが決まります

他の人を信頼するには、まずは自分が自分を信頼することが必要で、自分を信頼することができれば、他の人のことも信頼することができるようになります

わからない不安

わからないこともある

不安になることはありますか

不安は、不安になることがあるのではなく、自分が不安にしているだけです

何を不安に思うかは、人によって違いがあり、多くの人が不安に思うのは、自分がわかりたいことが、わからないときのように思います

わかりたいけど、誰もそのことをわかることができない、と不安になると思います

わかりたいことがわからないのであれば、わかるようにしていけばいい、そう思うかもしれませんが、わかることができないこともあります

自分のことであれば、自分でわかることはできますが、他のことであれば、自分ではわかることができないこともあると思います

しかし、わかりたいという思いが強ければ強いほど、そのことがわかることができないと、わからないことへの不安は大きくなっていくように思います

 

人は、自分がわかりたいことが、どうしてもわからないときは、自分で勝手に想像することがあり、そのうちに想像が妄想になっていくことがあります

想像は、自分が思い描いているものなので、わからないことをどんなに想像しても、それは事実とは違うので、想像で不安がなくなることはありません

どうしても、わからない不安をなくしたいときは、想像を妄想にしていき、実際にある事実ではなく、私だけが思う私実で不安をなくそうとしていきます

初めは、そうかもしれないと想像していたことが、きっとそうだと、そうに違いないと妄想して、事実ではなく、私実で不安をなくそうとしていきます

しかし、妄想による私実は事実ではありません

どんなに、自分が事実だと思い込んでも、自分の妄想でわかったとしていることは私実であり、それが事実になることはありません

 

きっとそうだ、そうに違いないと思う私実が、事実であることはなく、結果的に、事実と同じだったことがあっても、それで私実を事実だと思うのは間違いです

結果が事実と同じであっても、自分の妄想であることは私実でしかなく、事実を私実にしていては、不安な思いがなくなることはありません

わからないことを不安にしないためには、わかりたくてもわからないこともある、そう思って、わからないことをわからないまま受け入れることが必要です

今の時点で、わかることができないことを、わからないとすることが必要です

わからないままだといけない、そう思うのかもしれませんが、わかることができないことを、わからないままにすることはいけないことではありません

わかることができることを、わからないままにするのは良くありませんが、わかることができないことは、わからないとした方が良いこともあります

 

自分がわかりたいことのすべてが、わかるわけではないと思います

そのことは誰もがわかっているのに、自分が、どうしてもわかりたいことがわかりたいときは、わからないのはいけないと思うのは違うと思います

わかりたくないことは、わかることでもわからないとしていくのに、わかりたいことは、わからないことをわからないとしないのは良くありません

わからないというと、他の人に「わからないの」とマウントを取られる、そう思うのかもしれませんが、マウントを取る人ほど本質はわかっていないものです

わからないことはわからない、そう思うことができれば、そのわからないは、わかることができることか、できないことかがわかってきます

それがわかれば、わかることができるものは、わかるようにする、そうではないことは、わからない、そうすることでき、わからない不安はなくなります