アドラー心理学《勇気を持つ》

アドラーは、勇気とは困難を克服する努力、リスクを引き受ける気力、他者と力を合わせる協力によって支えられていて、勇気は誰にでもあると言っています

自分に勇気がないと思うのは、自分にある勇気が持てていないからだと思います
自分にある勇気は、自分が持つと思えれば持つ事ができます
自分に勇気がないのは、自分が勇気を持つと思う事ができていないからです
そこには、できなかったらどうしようという、失敗したくない思いがあります
物事ができる人に勇気があって、できない人に勇気がないわけではなく、とにかく何でも行動すればいいと思う人に勇気があるわけでもありません
勇気があるかどうかは、その行動をすると自分が決めているどうかであり、自分が決めていると思えなければ、その行動に勇気はないように思います
大事なのは、勇気があるかどうかではなく、勇気を持つ事ができるかどうかです
そもそも、自分が決めていると思っていなければ、勇気を持つ事もないと思います
誰にも勇気はありますが、自分が決めていると思える行動でなければ、どんな行動であっても勇気のない行動になってしまうと思います

多くの人が自分に勇気がないと思ってしまうのは、自分の勇気がなくなってしまう事が、日々の生活の中であるからだと思います
それは、今の競争社会における弊害だと思います
本来の競争とは、お互いが競い合いながら切磋琢磨していく事で、お互いが今よりも良くなっていく事を言うのだと思います
結果として勝ち負けが付く事がありますが、それはあくまでもおまけだと思います
しかし、今の競争はおまけの結果だけが欲しくて、競い合うのではなくただ勝てばいいという、争うだけの競争が多くなっているように思います
おまけが欲しくて買った商品で自分が良くなる事がないように、おまけが欲しくて行う競争で自分が良くなっていく事はないように思います
競争に勝つだけであれば、自分が良くならなくても相手より良ければいい、或いは、自分は悪くなっても相手がもっと悪くなればいい事も入ります
お互いが競い合った結果の勝ち負けであれば、どちらも良くなっていく事ができますが、争った結果の勝ち負けの場合はどちらも良くならない事もあります

自分が良くなるのであればまだいいのですが、自分は何も変わらない、或いは悪くなっても勝てばいい競争をしていては、自分に未来はないように思います
だからといって、競争をしないというのも違うと思います
大事なのは、競い合って勝つ事で、争って勝つ事ではないと思います
利益至上主義になると、競い合う競争ではなく争う競争だけになってしまい、何かを創り上げる事もなく、今あるものを搾取し合うだけになっていきます
自分には勇気がないと思ってしまうのは、競い合ってお互いを高めていく競争ではなく、勝てばいい争う競争をしているからだと思います
失敗したくない、そう思う時は、争う競争をしている時かもしれません
何か新しい事ができるようになるには失敗する事は必要です
それなのに失敗したくないと思うのは、新し事にチャレンジしているのではなく、一か八かのギャンブルをさせられているようなものだと思います
競い合う競争を、勝てばいい争う競争にしてしまう行動は、チャレンジをしているように見えても、ただのギャンブルをしているのと同じだといえます

勇気があると思えるのは、自分が勇気を持つと思える時です
今の自分に競い合う事がなく、ただ争うだけの競争をしている事はありませんか
ただ勝てばいい争う競争をしていては、自分に勇気がないのも当然だと思います
もし、ただ勝てばいい争う競争していて、自分には勇気があると思っているなら、それは本物の勇気ではなく、勇気が持てない人が持つ偽りの勇気です
自分に勇気が持てるようになるには、競い合う競創をしていきましょう
競い争っていく競争ではなく、競い創り上げていく競創をしていきましょう
競争の本来の意味である、競い合ってお互いを良くしていくという意味には、争うという字よりも、創るという字の方がしっくりくるように思います
どんなに周りが勝てばいい争う競争をしていても、自分はその競争の中には入っていかない、そう思って行動していければ、勇気は持てるようになります
他がしている勝てばいい競争をやめさせる必要はなく、自分がその競争に巻き込まれないようにして、お互いが良くなる行動をしていくように心がけましょう
そうすれば、争うだけの競争ではなく、創り上げる競創ができるようになります