人としての正しさ

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自分の正しさではなく

自分は正しい、そう思う事はありますか

正しい事をしていく事は大事だと思いますが、正しいと思う事が、人として正しいと事なのかそうではないかによって、その正しいには違いがあるると思います

ルールで決まっている事であるならば、そのルールを基準にして、自分が正しいと思う事があっても何も問題がないとは思います

しかし、そうでない場合は問題があると思います

ルールで決まっていない場合の自分は正しいは、正しい事とは限らないからです

ルールで決まっていない正しいは、個人的な正しいの集合体でしかなく、どんなに多く集まっていても、個人的な正しいだけでは正しいとは言えないと思います

ルールで決まっていない事の正しさを決めるのは、多くの個人的な正しいと思う事ではなく、人として正しいと思うかどうかで決める事が必要だと思います

 

人として正しい事と誰もが正しいと思う事は、同じである事もあるとは思いますが、必ずしも同じであるかというと、そうではない事もあるように思います

稲森和夫さんの「心」という本でも人として正しい事とは、正直であれ、人を騙すな、思いやりを大切にといった、道徳的や倫理的なもののようです

稲盛さんは人としての正しさという判断基準は決して、会社にとって正しいとか、自分にとって正しかとか、という事ではないと記しています

人はどうしても物事の正しさを見ていく時に、人としての正しさを基準にした方が良い事は頭でわかっていても、それ以外を基準にする事があるように思います

自分の正しさ、会社の正しさ、親の正しさ、社会の正しさなど、人としての正しさの前に別の正しさを持ち出してしまう事があると思います

それが、社会における様々な問題の発端になっているように思います

 

人としての正しさを基準にした方が良い事がわかっていながら、それ以外の正しさを基準にしてしまう事があるのは、思考に問題があるからだと思います

そこには、自分の事ではなく、自分の事だけを考える思考があると思います

自分の事だけを考えるとは、周りの事は考えずに自分の事だけを考える思考だけではなく、周りの事は考えるけど自分の都合を優先する思考も入ります

人は誰もが自分の事を考えるとは思いますが、自分の事を考えると、自分の事だけを考えるとでは、だけの言葉があるかないかだけ以上の違いがあります

自分の事を考える事とは、自分の事のように周りの事を考えるという事で、そこにある正しさの基準は、人としての正しさしかないといえます

自分の事のように周りの事を考える事とは、人それぞれの違いを踏まえて皆が良くなる事を考える事で、そこに自分だけという思考自体がないといえます

 

その事は人として正しいのか、そう問いかける事で、今の自分にとって、会社にとって、社会にとって正しいと判断している事があるかどうかがわかります

もし、人として正しいという判断基準以外の正しさで判断している事があるならば、今一度、それは人として正しい事なのかどうかを見る事が必要だといえます

なぜなら、そこには自分の都合が良い、自分の事だけを考える思考があるからです

自分の事だけを考える思考は、自分の事を考える思考に変える必要があります

自分の事のように周りの事を考える、自分の事を考える思考になって、今の自分にある正しさの判断を人として正しいかどうかにしていく事が必要だと思います

人として正しい事を基準にする事に関して「でも、だって」という言葉が思い浮かぶ人は、自分の事だけを考える思考が頭のどこかにあるように思います

どんな理由があっても、人としての正しさより優先する正しさはないと思います